2017年01月08日

他人なめすぎパターン

カウンセリング件数が多くなって来ると、とあるパターンの方々によく出くわすことがある。

人には誰でも一定のパターンを持っているものだけど、大抵大人になるまでにそのパターンを作り上げている。

中でも自分の怒りの源と戦わずして逃げた過去があるというのに、源からは逃げ続け、全く関係のない他人にそれをぶつけるパターン。

これはただでさえ迷惑なことなのだけど、体裁のつく表向きの理由があるので、本人すら気が付いていない。

ところが、これ、カウンセリングの現場なら全然OKなのだけど、仕事仲間や友人、ごくごく私的な場所でやっている人が居る。

最初は相手にしていてくれた人も途中から「あれ?何言ってんだろ、この人。結局いつも同じだなあ。」となって離れて行くものだから、とうとう、もっともっと関係のない遠くの人に向かってそれをやるしかなくなって来る。

そしてますます不自然でおかしなことに。

そんな人の話をカウンセリングとは全く関係のない人付き合いの中で聴いていると、幼い頃や思春期に両親が不仲だったとか、お母さんとお婆ちゃんが仲が悪くて喧嘩ばかりしていたというエピソードが十中八九出て来る。

仕事上、一対一で他人様がディスカッションしているときに「仲良くして。喧嘩しないで。」ととんちんかんなことを言って来る人もいる。

あるいは人間だから当人同士の問題や好き嫌いやら相性やらというものがあって、それでも人は何とかして共に一つのことをやろうとしているのに、過去自分が目にした不和を投影して過剰反応するとか。

それもできなくなると、もはや何に怒っているのかさえ分からなくなっている。

それって、どんなに複雑にしたくても、どんなに哲学的な意味をもたせようとしても、単なる反抗期。

本来ぶつけたかった相手にそれが出来なかったから他人様の生き方や言動にけちをつけるのだけど、皆そんなに馬鹿じゃないのでやっぱり離れて行く。

そういう類の人々は、他人様が笑顔でいたり楽しくしていることが大嫌い。

自分が自分で作り出して勝手に味わっている不快な感情なのに、他人もそれを感じて欲しい、そうでなければ孤独は癒えないと思い込んでいる。

それを無意識に仕事やら他人である友人やら恋人関係やらに持ち込むのだとしたら、同意して乗ってくれるアホな人がいてもいなくても、どちらにせよ孤独なままだ。

でも、甘えている人は自分の感情に責任を持とうとはしないので、孤独であることさえ一人で出来ない。

そんなわけだから、仕事でもプライベートでも、話し合いと称した甘えん坊会議に付き合ったり付き合わせられている人を目にして来た。

それは結論が出るわけないよなあ。解決が目的ではないし、傾聴ではなくて言いたいだけだから。しかも相手には喋らせないようにするし。

そんなことに頭や労力や時間を使ってもなあ。

人さまはあなたの親でも婆ちゃんでもない。あなたのお父さんでもない。

もっと言えば、ある程度の年になって来ると、源はもはや親たちですらない。

きちんと戦って来た人たちはそれを知っている。

自分が何をして来て、今何をやっているのか?ということを。

自分の幼さと付き合っている人、付き合って来た人は知っている。これを知っていれば他人ばかりに大人であることや完璧さを求めないということを。

聴けないから成長できないのか、子供のままだから傾聴できないのか。卵が先か鶏が先か。

それを論議することに一生を費やしたくないなと思う人々がいる。何故ならどこから初めても同じだから。

動いてみないと先は見えないから。

批判に時を費やして自分で動かない人や、人を思い通りにする人が付き合い切れず帰ろうとする人に「勝手だな!」と思うことがあるだろう。

勝手なのは、プライベートの貴重な時間を不毛なやり取りに付き合わせてあたりまえだと思うあなたの方なんですよ。

もとい、人には誰しも特定のパターンがあるのだけれど、それを知っている人は、人に手伝って貰うときのあるべき態度を知っている。
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今日も最後まで読んで下さってありがとうございました。あなたにとって良い一日でありますように。


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posted by かおる at 06:00| Comment(0) | 交流分析 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする