それに付随して自分の体験を思い出したり他のセラピストさんも同じような話題を出していたことを思い出したり。
例えば人の人生って尊いもので個人の生き方もまた尊い。
勝手に触れてはならないことや代わりにやってはならない領域というものがある。
けれども、不安な人や劣等感が強い人ほど、他人の世話を焼きたがる。
潜在的に自分がそうして欲しいからそうなってしまうのかも知れない。
それがとんでもない支配につながるのだけど、健全な人は「ああ、うざいなあ。面倒くさいなあ。それ要らない。」と意思表示できるので問題ない。
ただ、その健全な人でも時期的に弱っているときや寂しいときなどは、その生暖かさを心地よいと錯覚してしまうほどだから、依存的な人だともっと大変なことになってしまう。
親兄弟や友人がその人の課題を取り上げて世話を焼いた結果がどうなるか?という話は山ほど聴いて来たので、その傾向が強い人に出会う度に困ったなあと思う。
カウンセラーやセラピストを目指している人の場合だとその辺のところを詳しく話す機会もあって、よく”メサイアコンプレックス”の話などをする。
でも、ずっとそうやって生きて来て”人を助ける素晴らしい自分”という幻想にしか価値を見出せない人だと、途端に瞳孔が開いたり目が泳いだりする。
それを理解するということは、人のことの前に自分のことを考えなくてはいけなくなるから。
病名のつかない病気というものがあって、その類の人は、最終的に人の欠点ばかりを探すようになるし、欠点があると認識した人としか付き合えなくなる。
つまりは人の不幸を観るとイキイキするような人間になってしまうのだ。
嫌というほどそれを学んで来た私たちは本当のやさしさとか強さについて考える。
なので、しばしば考えられないほど支配的な人に遭遇すると驚きを隠せない。
とある人などは、侵入という暴力にハラハラと涙を流すほどなのだけど、侵入している方は良いことをしたと思い込んでいるのよね。
けれどもそんな場面での彼女の自分の取り戻し方に感動した。
そういうショックから立ち直ろうとするとき、彼女は「信仰の自由、信仰の自由、信仰の自由。」と三回ばかし唱えるそうだ。
大笑いしてしまったあとに、考えてみれば人の人生やその人らしい生き方を大切にしたいという考えも、先方からしてみれば信仰に過ぎないのかもねという話に落ち着いた。
『でも、好きなんだよね、この考えが。』
そんな話に落ち着いたとき、この人生の過程を嬉しく思った。
分かり合えたり通じ合えることって本当に嬉しい。
大切で貴重な人が、本当にいつまでも元気で、その人自身であって欲しいなと思った。
そして、そんなことは心配無用と思える彼女の強さに敬意を感謝と安心感、信頼を感じた。
*****
今日も最後まで読んで下さってありがとうございました。あなたにとって良い一日でありますように。

↑
ランキング参加中です。クリックして下さると励みになります。
